"

お知らせ

TOPICS

2月25日のZOOM朝礼 データベースを活用しようー母と子の対話と協働作業によるベストアンサー (学校長のブログ)

25.02.25

皆さん、おはようございます。
2月17日の全校朝礼で「校長先生からのミッション2」として下記の問題を出しました。

 (問題) 115年ほど前、馬町の交差点には(写真1)
     のような門があり、「大仏○門」または
     「大仏大○門」と呼ばれていました。
     ○の中には同じ漢字一文字が入ります。
     ○に当てはまる漢字は何でしょう。
     お友だちや家族と一緒に調べてみましょう。

   *問題文に「 「大仏大○門」とありましたが、
    「大仏○大門」に訂正いたします。

 

さて、朝、校門であいさつを交わしていると、何人かの児童から「このクイズは難しいです」「みんな、苦戦しています」と話しかけられました。
インターネットで検索すればすぐに「答え」が見つかると思い、多くの子どもたちは「大仏○門」と入力し、調べたようです。ところが出てくるのは奈良にある東大寺大仏殿のことや南大門のことばかり。京都にあった門の話だからこれではないはず、さあ、困った、というわけです。
それでも多くの方がチャレンジしてくれました。ありがとうございます。
一つの〔解答例〕を示しておきます。
  むかしの地図の「データベース」を調べてみると、
  馬町にあった門は、「大仏北門」「大仏北ノ門」「大
  仏北大門」などと書かれていたことがわかりました。
  そこから○の中には(北)という漢字が入ると考えました。

 

それでは今回のベストアンサーを紹介します。
それは(1年生 Nさんの答案)です。
  「大仏(北)門」
  校長先生のブログにかいてあった「この地図だけでは、名前は、わかりませんでした。」ということばをヒントにして、江戸じだいから、一九一二年まで地図をお母さんといっしょに「しょぞうちずデータベース」というサイトから、がんばって、さがしました。一八七六年の地図に、「大佛北ノ門」とかいてありました。学校のちかくに、むかしは大仏さまが、いらしたなんて、おどろきました。

 

江戸時代(天保2年)の絵図『京都絵図細見大成』だけではわかりませんという校長先生のブログをヒントにして、お母さんといっしょにがんばって、国際日本文化研究センターが公開している「所蔵地図データベース」の地図を探してみた、そうしたら1876年の地図に「大佛北ノ門」という書き込みがあった、だから馬町にあった門は「大仏(北)門」だという考察結果です。

出題者の意図を完璧に読み取った、まさに母と子の対話と協働作業によるベストアンサーだといえます。学びに向かう力の強さも見て取れました。
校長先生もまったく同じ方法で馬町にあった門の名前を探していました。
皆さんも下記のURLから1876年の『京都区分一覧之図改正 附リ山城八郡丹波三郡』という地図を検索してみてください。「大佛北ノ門」という書き込みを探し当てることができると思います。これが科学的な検証です。
     https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002156263
また、1899年の『改正新刻京都市街新図』には「大仏北大門丁」と書かれていましたので、「北大門」ともよばれていたといえます。
     https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/zoomify/mapview.php?m=002758928_o
よって、「大仏○門」または「大仏○大門」の○の中には「北」という漢字が入ることとなります。
    
惜しくも正解とはなりませんでしたが、かつて方広寺・大仏殿を囲っていた門について考えるきっかけとなる「答案」がありましたので、二つ紹介します。
   
一つ目は(3年生 Uさんの答案)です。
  「大仏(前)門」
  大仏前交番があるからです

 

現存している建物(交番)の名前から推理した「答案」です。
確かにかつて大和大路七条(現在の大仏前交番のあるところ)に大きな門がありました。それは方広寺大仏殿の西門、あるいは三十三間堂の西門とよばれていた門です。1891年の濃尾地震の影響で破損したことから「崩れ門(くずれもん)」というあだ名がつけられました。その後、すぐ近くに京都国立博物館が建設されることになったことからこの門は解体されることとなり、1895年に東寺に移築されました。それが現在の東寺の南大門です。
馬町にあった門の話ではありませんが、別の歴史の扉を開けるきっかけとなる「答案」でした。

 

二つ目は(1年生 Kさんの答案)です。
  「大仏(東)門」
  Yahooで大仏南門 馬町と予想して調べました。調べたら大和大通り大仏南門と出てきて、でも、馬町通りと通りが違うので違うと思いました。次に地図を見 て仁王門や南門があったけれど、1913年にある門なので違うと思いました。なので大仏東門だと思いました。

 

とても論理的な分析です。決定的な根拠を見つけることができなかったため、消去法を用いて「東門」にしたという考察です。
大仏南門というのは豊臣秀吉が東大寺を模して発願した方広寺・大仏殿の南門のことで、現在の三十三間堂の南大門にあたります。門に連なる土塀は「太閤塀」(たいこうべい)として知られています。インターネットで検索して出てきた情報ですから「これにまちがいない」と決めつけたいところですが、馬町とは真逆の方角にあることかこれは違うとした堅実な判断です。広大な敷地をもった方広寺です、東門もありそうですが、いまのところ東門とみなされる遺構は確認できていないようです。

今回は大きな図書館や研究所が公開している「データベース」を活用して調べるという方法を紹介しました。こうした調べ方の基本がわかれば、次からは自分自身で「データベース」にアクセスしてみようと思うことでしょう。ひとたび「データベース」にアクセスして調べてみるという「体験」が身につくと、その後の調べ方はどんどんと早くなります。上達します。「調べ方のコツ」が身につくからです。これが生きた知識と技能となっていきます。後はこれを柔軟に応用していくことです。学んだことが、明日、そして将来につながるように進化せていきましょう。期待しています。
これで校長先生のお話を終わります。
——————
ではまた
坂口満宏

ホームへ戻る